コップ一杯

一杯だけ、と付ければ余裕が生まれ、もう一杯です、と挟めば微塵の隙間も無くなる不思議さがそこにある。一杯、とだけ置かれた言葉がどちらに転がるのか、ひと撫でで分かれば良かったのに。

見たもの全てを救おうとする人が美化されるのはそうあるべき、だからではないのかもしれない。出来ないから、出来るはずがないから。すれば、何が起こるか分からないから。そんな神話に近い代物を小さい頃から口に詰め込んだり、詰め込まれたりした。

神話を体現すればバチが当たるから、といつからか美談はすり変わり、今は、無力と名前を変えて胸元に沈んでいる。「そうなりたかった」に成り果てた「なりたい」は、毒にしかならない。

内蔵されたスロットは想像よりも遥かに、遥かに少ない。想像力を飛ばすのは子供の特権で、選挙権が霞んで見える。なんだってできる、からできることをえらんでつづける、に綺麗に脱皮できなかった場合のマニュアルを作る人はいない。作る気力も余裕もないまま崖に吹き付ける風に怯え続けている。大人になれないまま子どもの権利にしがみつくのは見るに耐えない、なりたくなかったあの日の大人だ。片付かない部屋にそのまま自分を置き換えて、あまりに違和感が無いからそのままでいいか、もう。